怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記 116 間宮林蔵とシーボルト事件

長崎のオランダ商館付き医官による国禁の日本地図持ち出しを幇助(ほうじょ)した科で、幕府天文方の赤橋景保以下が処罰されたのがシーボルト事件(1828年)。シーボルトは帰国後、先の地図なども織り込んだ『日本』を著し、歴史人物に名を連ねることになる。

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 江戸時代北海道以北の蝦夷地は松前藩の支配地であったが、18世紀後半からロシア人が来訪あるいは襲撃を繰り返すようになり、幕府は東半分(北方領土を含む)を1800年、西半分(樺太を含む)を1807年に、幕府直轄地に改め、東北諸藩に駐留防備を命じている。防備の必要上正確な地図作成が急がれ、伊能忠敬が大日本沿海輿地全図を完成させるが、樺太については間宮林蔵が受けもった。彼は1909年実測により、樺太が島であることを確認し、アジア大陸から突き出た半島としていた従来の説を覆した。これがシーボルトによって欧州に紹介され、「間宮海峡」の名が定着する。


 シーボルトはなぜ地図を持ち出そうとしたのか。それには当時の国際情勢を知る必要がある。南アジアを征服し終えたイギリス、フランス等は、日本や中国(清)の海域に出没するようになる。ロシアも北から虎視眈々と迫ってくる。侵攻作戦には正確な地図が不可欠。そのため当時の世界水準を凌駕する正確さの伊能や間宮の地図が狙われ、シーボルトは先の高橋を賄賂で篭絡(ろうらく)して入手した。幕府はシーボルトをロシアのスパイと疑ったが、彼を拘留し罰する根拠法がないとして、国外追放で幕を引いた。

「日本にはスパイを摘発し、重罪を課す法律がないから、国家的機密はダダ洩れ状態」。だれかれとなく指摘することだが、本気で検討されることはない。国家体質はなかなか変わらないようだ。なお、シーボルトからの贈答品付き交友申し込み書簡を、愛国者間宮が国法に沿って幕府で届けたのが事件発覚の端緒という(赤羽榮一『間宮林蔵』)。
顧問 喜多村悦史

2020年11月24日

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