怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記358 幣原外交の評価

幣原(しではら)喜重郎氏の自伝『外交50年』(中公文庫)を読む。満洲事変(柳条湖事件、1931918日)時の若槻内閣の外務大臣。先立つ1920年初頭のワシントン海軍軍縮条約交渉時には駐米大使だった。当時の日本外交のかじ取り人の一人であり、「幣原外交」と個人名が一般に流布される特異例であった。

 その人自身による口述であるから、並みの学術論文や解説書では得られない当時の内外情勢が伝わってくる。

幣原喜重郎 - Wikipedia | ポートレイト、顔、歴史

いくつかを拾ってみよう。幣原外以降は俗に「軟弱外交=消極外交」とマスコミから批判されていた。若槻内閣の後に政友会の田中義一内閣ができ、いわゆる田中外交(積極外交=強硬外交と評された)が進められた。これに対し野党の立場で幣原が国会質問している。趣旨は、強硬外交がよくて軟弱外交は国益を損ねると言うが、田中外交で山東半島に出兵したが、反日感情を煽っただけで、何も得なかったではないか。外交とは国益を高めるためではないのか(112頁)。田中総理は口をポカンとして、答弁は要領を得なかったとする。

当時の状況は、満洲では張学良が、中国本土では国民党が、正規条約で規定された日本の権益を暴力的に侵害していた。折しも大恐慌の余波で国内も不況であったから、国民は激高した。その怒りを直接反映したのが強硬外交ということだろう。中国に権益を持つのは西洋列強も同様。彼らも国際ルールを無視する中国に怒っていた。日本が突出せず、そうした列強と協調することで国益を守ろうとするのが軟弱外交という分析の枠組みに立てば、両者の違いは方法論の違いとなる。

 英米は中国利権を日本が独り占めしようとしているのではないか。その疑念にどう対処するか。これが当時の外交の要点。英米も利権を有し、あわよくばその拡大を狙っていた。そしてもう一つ、日露戦争での敗戦とそれに伴う条約、協定で満洲への南下政策を放棄したはずのロシアが、ソ連に衣替えすると共産主義の世界拡散を表向きに領土拡大の動きを隠さなくなっていた。そして手先の破壊工作などに中国共産党を活用しようとしていた。満洲や中国本土での正当な利権を日本は単独で守るのか。英米と協調共同するのか。

 積極=強硬外交と消極=軟弱外交。どちらがよかったのか、どちらでも結果は同じだったのか。こうしたことをしっかり見つめ直すことが必要だと思う。高校での歴史教育は、土器時代から始めるのではなく、十分な時間をかけて近現代史から学ぶべきだろう。そしてそれが民主主義、国民主権を学ぶ基礎課程になる。

 幣原氏は敗戦直後、1945年秋に天皇から総理大臣に任命されている。新憲法草案が朝野で検討された時期である。現行憲法は19462月にGHQが突貫工事で作成したというのが定説だが、幣原氏は、平和条項については自分が言い出したと自伝で強調して、「中途半端な、役に立たない軍隊を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである」(219頁)という。その根拠として、侵略国は一致団結して非協力を貫く何千万人もの相手国人を殺し尽くすことはできないとした書物(『講和条件』)を挙げている。

だが、その時点では、ソ連や中国共産党による百万人単位の殺戮はほとんど知られていなかった。共産党独裁政治に内在するジェノサイド的本質を幣原氏が知っていて総理に就任したのだとしたらどうだっただろうか。なお幣原氏は1951年に死去しており、自伝はその直前に収録されている。

 イギリス人の子育てに関する記述も注目に値する。外務省見習いとしてロンドンに赴任していた幣原氏が庶民階級の家に下宿していたところでの体験。「イギリス人には妙な習慣がある。それは職業に就かず、給料を稼がない子供は…ナースリーという子供部屋にぶち込んで…食堂や客間などに一切入れない。この家でも、兄弟二人子供部屋で暮らしていたが、こんど兄貴が職業に就いたので、食堂で両親と一緒に食事をするが、弟は相変わらずのナースリー住まいだ」(241頁)。

引きこもりとか、ニートへの対策をどうすればいいのか。幣原氏が今、生き返ってくれば何と言うだろうか。「とにかく優しく」とは異なることは間違いないだろう。

顧問 喜多村悦史

 

2021年07月22日