怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記㉓ 大和ミュージアム

今年の夏は、コロナ騒動の余波で帰省する人が極度に少なかったという。

何年昔のことだっただろうか。「呉に連れて行ってくれないか」。生前の父が、東京から車でお盆帰省したボクに言った。目的は大和ミュージアムの見学だという。

館の前庭に戦艦「陸奥」と記されていたと思うが、巨大な砲が陳列してあった。「これに比べればワシが撃っていたのはオモチャだな」。彼は駆逐艦乗りで、大砲の照準担当だったという。「こんなのをぶっ放してみたかったな。拿捕した貨物船に砲弾を命中させても平気で浮かんでいる。魚雷ではドカン一発で撃沈。駆逐艦では魚雷が主兵器で、大砲屋の肩身は狭い」。

 初めて聞く話が多かった。敵の艦載機の爆弾攻撃のかわし方。艦橋から半身乗り出した艦長が、爆弾の落下方向を目算して、「面舵! 取り舵!」と指示を出す。その判断次第で、一連托生になる。海軍では階級が絶対の尺度、お風呂に入る順番ひとつも上官からだが、そこは人間社会。艦長の当番兵を兼ねていた父のところに、士官たちが手土産をもって要領を頼みに来た。こんなことどの戦記にも書いてないだろうなあ。

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 大和の巨大模型に敬礼して館を後にした父が「もう一つ行きたい場所がある」という。街が変わっていて目的を果たせなったが、「お母ちゃんと見合いして一目で気に入った」場所を訪ねたかったのだ。母は数年前に他界しており、父は思い出をたどっていたのだろう。艦艇の動きをスパイに探られないよう、海軍兵の上陸日時・場所は極秘事項。双方の親や仲人の親戚との間で、暗号のような手紙のやり取りをしたという。

 饒舌になった父に、記憶を文書にしてはどうかと勧めたが、「意味ないことだ」と乗って来なかった。それ以上戦争について語らず、ほどなく父は死んだ。

 

喜多村悦史

2020年08月26日