怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記222 亀戸の銭座跡

街歩きをしていると思わぬ発見をする。横十間川親水公園が通常の散歩コースなのだが、気分転換で並行する道路脇を歩いていて出くわしたモニュメント。「亀戸銭座跡」とある。乗っかっているのは「寛永通宝。江戸時代の通貨だが、だれもが一度や二度は見たことがあるだろう。子どもの頃、実家の庭を掘っていて見つけたことがある。そのくらいポピュラー。

 東京屈指の繁華街“銀座”の地位の由来が、江戸時代の銀貨鋳造所があった場所だからというのは周知のこと。銀座があったなら、金貨鋳造の“金座”もあったはず。金座の跡地はどこか。ネットで調べると、日本銀行の本店がその場所。日銀は数百トンの金塊を保有している。それが金座跡地に建つ日銀本店の金庫に納まっていればおもしろい。でも実際はニューヨークの連邦準備銀行に預けているとのこと。国内では防犯に自信がないためだろうか。

 金貨、銀貨に比べ、グっと価値が下がるのが銅銭。写真の碑は、銅銭の鋳造場所である“銭座”の所在地跡というわけだ。ただウィキペディアによると、ここで寛永通宝のすべてが鋳造されたわけでもないようだ。

 寛永通宝の最初の発行は寛永31626)年。経済規模の拡大に通貨量が不足したため新銅銭が発行されることになった。ただし鋳造は民間請負制で鋳造高の10%程度を幕府に運上金として納付する仕組みだった。なにせ当時の日本は世界屈指の銅産出国であり、銅は地金でも銅銭の形でも、主要な輸出品だったから、銅銭鋳造を希望する事業者は全国各地で手を挙げ、いたるところに“銅座”ができた。

 しかし作り過ぎれば銅銭の価値が下がる。また品質的問題を指摘される個所も出てくる。そうしたことから幕府は統制を強めることになり、江戸の亀戸に大規模な銭座が設けられ、鋳造が集中化されることになった。ここで作られた寛永通宝は均質の良貨であり、「文銭」と呼ばれて重宝されたという。ところで亀戸銭座の設置年は1668年のことだとされる。元号では寛文8年のことだ。寛永は1645年に正保に改暦され、慶安、承応、明暦、万治を経て1661年から寛文である。にもかかわらず亀戸銭座で鋳造したのは寛永通宝。元号は変わっても寛永通宝は鋳造され続けた。この事情を知れば、寛永通宝の現存量の多さも納得できる。

 

顧問 喜多村悦史

2021年03月09日