怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記229 忠臣蔵お殿様の辞世

320年前のこの時節の最大事件は、権力の中枢、江戸城松の廊下での刃傷事件。赤穂城主の浅野長矩(ながのり)が高家筆頭吉良義(よし)央(なか)に切りつけた(1701=元禄14314日)。幕府の即決裁判で、浅野は切腹・領地召し上げ、吉良はおとがめなし。現代と違い当時は戦国の血気も残っていて喧嘩両成敗が基本。

よって幕府の判決は不当の世論が形成され、赤穂浪士47名による吉良邸討ち入り(170322日)につながっていく。幕府も加担したであろう世論によって、討ち入りは公然と行われ、吉良側は孤立無援、義央は嬲り殺しであったのが史実であると加藤廣さんの『戦国武将の辞世』(朝日新書)という本にあった。

そうだろうなと納得。権力側の誘導支援がなければ、この規模のテロがここまで完璧に成功するはずがない。大石内蔵助が討ち入り成功直後に知人に宛てた手紙には、「吉良の親戚である上杉家から吉良への援軍はなく、用意していった半弓その他の武器は不要でしたとして、あまりのおかしさに一句、『覚悟したほどには濡れぬ 時雨かな』」と添えている。

世に流布する「幕府の探索の目をかいくぐっての義挙」、「数で優る吉良の防御を用意周到に突破」はすべて幕府側の情報操作という。ではなぜ幕府はこうした世論誘導と操作を行ったのか。

 そのカギは浅野長矩の辞世にあると加藤さん。

「風誘う 花よりもなほ 我はまた 春の名残りを いかにとやせん」

 

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 ここには抜刀禁止の城内で刃傷に及んだ理由が一言もない。事件直後の幕閣による尋問でも、長矩は理由を述べなかったとされている。吉良も同様だ。それで浅野のみへの処罰となったというのが記録だそうだ。はたしてそうだったのだろうか。

長矩はいろいろ陳述したけれど、そのすべてを抹殺して記録に載せず、吉良にも余計なことを言うなと口止めしたのではないか。その吉良から真相を語られるとまずいから、仇討をなかば公認して口封じをした。さらにご丁寧にも、大石など47士全員を切腹させて、事件の真相を闇に葬った。これが元禄江戸幕府のインテリジェンスであったとしたら。

 では、ほんとうに隠したかった事件の本質は何だったのか。加藤さんの謎解きは『謎手本忠臣蔵』(新潮文庫)にあるが、あくまでの一つの解釈。世間にはとても公表できない権力中枢の利権がらみであった、ということはないだろうか。

顧問 喜多村悦史

2021年03月16日