怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記246 幻の26府県案

最近知ったのだが、1903(明治36)年103日に府県を大幅に再編する法案が閣議決定され、議会提出される段取りまで進んでいた。

 再編後の府県地図を示す。

 

 

 法案では翌19034月に施行されることになっており、ほぼ確実視されていた。それが実現しなかったのは、法案を審議する側の議会で衆議院解散になってしまったから。選挙は翌1904(明治36)年31日に実施されたが、その間に国家存続を左右する事態に突入、府県制の議論は吹き飛んでしまった。それが日露戦争。

ロシアの横暴に対して隠忍自重してきたものの、ついに堪忍袋の緒が切れたのが26日。国交断絶通告、朝鮮の釜山沖でのロシア船の拿捕、朝鮮半島仁川への上陸と進むことになる。

 幻に終わった府県制改革案だが、法案作成の原動力だった内務大臣の小玉源太郎さんは、戦争開始で陸軍部隊の作戦指導のために大陸に渡ることになる。

 内容は地図のとおり。改正の理由を内務省は、府県の領域の拡大、行政の整理統一、公共事業や教育経営の完備、経費節減としているが、同時に古代からの国制の区域をできるだけ尊重したとされている。

というのは江戸時代の藩制で、細切れになっていた領域を近代国家にふさわしい区画割への再編が、まだまだ途上であったため。

 明治新政府は、没収した幕府領などを改名した“府県”と存続“藩”の併存(33府県・277藩)状態で動き出した。間を置かずに藩を廃止して305の府県への再編成、これをさらに75府県に統合(第一次府県統合)した。続いて1876(明治9)年の38府県(第二次府県統合)へと目まぐるしく領域替えを行っている。

ここで分県運動を一部受け入れて数県を復活させるガス抜きで、1888(明治21)年に46府県体制になって一段落した(北海道は別)。

 だがさらなる統合、広域化の必要は認識されていて、児玉の府県再編案はこうした流れの延長線上にある。1903年の再編案に対しては激しい反対運動が記録されているが、分析すると、職を失う吏員や県庁所在地を本拠とする事業者などがしかけてもので既得権益者による妨害。一般国民は静かに支援していたものと思われる。

現に賛成の声も記録されている。長期的視点に立った市民の推進運動で押し戻すべきだったが、近時の大阪都構想をめぐる住民投票を見ても分かるように、反対の声が過剰に取り上げられ、改革が政争にすり替えられていくことになった。

 改正案は26に再編した府県に、沖縄と北海道を加えた28にしようとするもので、現在の47に比べれば19の減少になる。これが実現していれば、国会議員選挙での1票格差問題も容易に解決できる。府県再編が幻に終わったのが、今に至る禍根を残しているようで残念なことだ。

 改革案の区割りの妥当性について地図で検証してみよう。九州は福岡、熊本、長崎、鹿児島。中四国は松江、岡山、広島、高松、愛媛、高知。近畿は京都、兵庫、大阪、三重。中部は新潟、金沢、長野、名古屋。関東は宇都宮、千葉、東京、神奈川。東北は青森、秋田、仙台、福島。合計26府県。

 ボクの郷里の福山市を含む旧備後の国は岡山県に編入されて備前・備中と同県になり、広島県は代わりに山口県の大半を加え、領域が西方に移動することで、山口県は消滅する。法案作成した児玉は山口県出身だったが、身びいきしなかったということだろう。

もう一つ明治維新の原動力であった鹿児島県は宮崎県を飲み込んで拡大する案になっている。薩摩出身の政治家の了見の狭さと言い切るのは言いすぎだろうか。

府県を大まとめにする道州制構想も、大都市を府県から独立同格とする特別自治市構想もいっこうに進まない。ならばかつて閣議決定がされている1903年の府県改革案を再提出し、国会議論に付してはどうか。安倍晋三さんなど歴代総理経験者では、狭量なことを言わず、賛成するのではないかなあ。

顧問 喜多村悦史

2021年04月02日