怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記273 カノッサの屈辱

カトリック教会には法王の下に、大僧正、僧正などの役職がある。他の伝統的宗教でもそれぞれ聖職者がいる。そうした役職の任命をだれがするのか。
例えばカトリック。宗教は世俗の政治領域を越えて広がっていくものであり、ほぼすべての国・地域に信者は存在する。法王の側は「宗教は俗世間とは一線を画すものであり、その世話役の任命は協会内部の自主の領域」と考える。日本の国民もほとんどがそのように考えているだろう。「日本国内で布教するカトリック神父や主だった仏教宗派のトップを文部科学大臣が任命すべき」と考える者はいない。

1月25日:カノッサの屈辱 - 世界史カレンダー
これとは違う考えに立つのが共産主義の中国政府。人民は党の支配命令に服するのが当然で、例外はあり得ないと考える。当然、精神の自由を求める考えは許されず、それを主張する宗教は、抹殺すべき対象とされる。
では現代中国人は全員が無神論者か。ところがどっこい。宗教に心の平穏を求める者が急速に増えているという。億単位であることは間違いなく、表向きにしない者を含めれば、人民の過半になっているとの説もある。それだけ多数になれば、追放、拘束、殺害で絶滅させるのは不可能。


ならば宗教そのものを換骨奪胎、異質のものに転換させればいいのではないか。そういう結論になったのだろう。「国家宗教事務局令第15号」(5月1日施行)なるものが発令された。そこでは宗教に対する共産党の優位性が規定され、共産党政府が各宗派の指導監督をすることになるという。聖職者の任命、除名などがそこでの重要項目だ。


予行演習として、この2月には仏教、イスラム教、道教、キリスト教のカトリック派とプロテスタント派、5つの主教指導者が招集され、習近平側近の旺羊(全国政治協商会議主席)が、「各宗教は中国式の社会主義社会に適合したものでなければならず、習近平路線に沿った教義に改めよ」と演説した。国家による宗教管理宣告である。


 これで思い出したのが、歴史授業で習った「カノッサの屈辱」1077年の事件。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が聖職者を任命したところ、法王グレゴリウス7世から「お前に聖職者任命権限はない。勝手なことは許さん」として、信者の立場を破門されてしまった。信者でなければ天国にも行けない。臣民は従わない。困り果てた皇帝が北イタリア・カノッサに滞在中の法王から許しを得ようと雪の中、城門の前にはだしで三日三晩立ち尽くして謝罪し、ようやく破門を解いてもらうことができた。


 現代中国で起きているのはこの逆。あらゆる宗教の役職が共産党によって指名され、布教活動について指導を受ける。聖書、コーラン、仏典などは政府の検閲を受け入れさせられ、習近平個人崇拝に書き換えを求められる。共産主義は宗教であるとの説がある。この場合、一つの宗教が他のすべての宗教の上に君臨して、教義を指導する構図になる。その結果はどうなるか。協会に行っても、寺院に行っても、聞かされるのは共産党の教義を称賛する説教ばかり。特定主教の押し付に納得しない人は政府公認でない新たな宗教を立ち上げ、あるいはすがることになるだけだ。


そのイタチゴッコの帰趨はどうなるか。壮大な社会事件だが、理論的には結論は見えている。ただ、その結果が出るのは何年後か、あるいは何十年後か。

顧問 喜多村悦史

2021年04月30日