怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記274 水清ければ魚住まず

環境省が、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海の3海域について、「現状以上の水質改善を求めず、一定程度の汚れを認めていく方針への変更」を決めたという。工業化や生活排水の海域流入で、これらの海域汚染が強く懸念される時代が続いた。

1970年代から汚濁体質が強化され、5年ごとに見直す基本方針に基づいて、3海域では周辺20都府県の工場や下水処理場を対象に、窒素などの排出上限を定めている。そうした対策が功を奏して、水質は年々改善してきている。

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しかしものごとには適正レベルがある。水質がよくなりすぎることによる副作用が生じてきた。海水中の栄養分が少なくなり、アサリやイカナゴの漁獲量が大幅に減少するほか、養殖ノリでは色落ちなどの品質低下が顕著になってきた。かくして20都府県では、国の新たな基本方針を踏まえ、排出削減計画を再検討するという。漁業不振が目立つ瀬戸内海では、府県で窒素やリンの海中濃度を調整できるようにするための法改正が進められている。「改正された法律や基本方針を根拠に、豊かな生態系を維持できる計画を作りたい」とある県の担当者は語っている。

「水清ければ、魚住まず」という言葉がある。江戸時代、老中松平定信の享保改革批判狂歌に「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というのがあるが、水質浄化が行きすぎると魚は生きてられないという事実を踏まえることで、人々の共感を得た。

混じりものがいっさいない水を〝純粋“という。水を沸騰気化させ、その水蒸気を冷却すれば得られる。小学校の理科の実験で経験があるのではないいか。異物混入がまったくないのだから、これほど安全な飲料水はあるまいと子どもたちが思ったところで、「これは飲んではいかんのだよ」と先生。その結論はしっかり頭に入ったが、肝心の理由をどのように説明されたのか、そちらは記憶に残っていない。

ウエブで探してみた。次のようにまとめられるようだ。ミネラル分などもいっさい含まないため、味も素っ気もなく、おいしくない。しかも水本来の機能が強く発揮されて、身体内のミネラル分などの栄養素を溶かして体外に出してしまい、体内アバランスを壊す。コップ内の純粋が外気に触れるとただちに異物混入が始まり、感染症の原因細菌やウイルスまでもが混じり込む。

われわれが日常飲用している水道水も“純粋”レベルには程遠い。加えて次亜塩素酸で除菌することで安全性を確保しているわけだ。

環境保全では、「かくあるべし、異端は許さず」という教条的な主張が横行しやすい。福島原発処理水中のトリチウム放流もその一例だ。高濃度の放射性物質が生物の有害であることはわかっている。そこで安全値をはるかに下回る濃度に希釈して放流するのが政府方針。それでも絶対に放流反対を唱える者がいる。中国、韓国は嫌がらせで言っているだけで、自国の原子力発電所では平常運転で発生するトリチウムを海洋放流していることを棚に上げての、嫌がらせの外交戦術だから、日本以外の西側諸国のマスコミで騒いでいるところはないという。問題は国内で問題視している人たちと国内マスコミだ。

ボクの小学校当時、水道は未設で、家でも学校でも井戸だった。それでしょっちゅう「水当たり」でお腹を壊す者が出ていた。ならば水はきれいであればあるほどいいのか。それはそうだが、“純水レベル”というのは行き過ぎた。先生はそう言いたかったのだろう。ともあれ冒頭で紹介した環境省の新方針は、海洋生物の生存権にも目を向けたものとして評価できよう。

 

顧問 喜多村悦史

2021年04月30日