怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記301 上野まで歩く

上野まで歩いた。2時間だった。ほんとうの目的地は北区の飛鳥山。ただ全行程を歩き通すにはまだ修業不足。上野からはJRに乗った。娘、孫と同行予定だったが、相手は最初から歩行拒否で電車。現地で落ち合うことになった次第。

家を出て四ツ目通りをまっすぐ北上することと小一時間で東京スカイツリーに達する。ここまでは通常ルートの一つ。見上げる角度で写真を撮ったが、ありふれているだろうから掲載しない。

そこで左折して浅草通りをどんどん西方角進む。するとビル寺院(春慶寺)があり、その表に鶴屋南北の墓石があった。歩きつつ、携帯メールで知人にこのことを伝える。反応は「へえー、すごいね。どこにあった?」に続いて、「ところで南北は何をした人だっけ?」

 

 

そういえば名前を知ってはいたが、業績など知らない。ウィキペディアを開く。単一の人ではなく、この名前を名乗った人は5人が知られているという。そのうち有名ないのが4代目で、多数の歌舞伎演目を作ったことで知られている。写真で見るように上下に歌舞伎役者の名前がずらり並んでいることを納得。

宝暦5年(1755年)生まれで、文政12年(1829年)に死亡とある。江戸日本橋の紺屋に生まれたが、商売を嫌がり作家を志した。しかし芽が出ず、下積み30年、49歳で初めて作品が認められたというから、努力の大器晩成型。

主な作品に何があるか。ずらりと並ぶ中から抜粋したいが、あらすじを知っているのは『東海道四谷怪談』程度。

『盟三五大切』(かみかけて さんご たいせつ)、

『絵本合法衢』(えほん がっぽうが つじ)、通称「立場の太平次」(たてばの たへいじ)、

『慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ)、通称「伊達の十役」(だての じゅうやく)、

『天竺徳兵衛韓噺』(てんじくとくべえ いこく ばなし)、通称「天竺徳兵衛」、

『於染久松色読販』(おそめ ひさまつ うきなの よみうり)、通称「お染の七役」(おそめの しちやく)、

『心謎解色絲』(こころのなぞ とけた いろいと)、通称「本町絲屋の娘」(ほんちょう いとやの むすめ)…。いずれも知らない。

 怖いのは近年歌舞伎にはまっている家内が、「○○を見に行こうよォ」と言い出さないか。歌舞伎は好きな人にはたまらない魅力なのだろうが、そうでない者にはただ眠いのだ。(これは内緒)。

 墨田川を渡り、雷門通りを進むと上野駅の入谷口に達する。その途中で玉川兄弟の顕彰碑を見つけた。江戸市中に上水を引いた偉人で、小学校で習った記憶があるが、今でも教科書に載っているのかどうか。二宮尊徳も今や無視されるようだが、この国の価値観はどうなっているのか。

 浅草近くでは社団法人日本喜劇人協会という看板があった。どういう活動をしているのだろう。東本願寺という巨大建築もあった。墓地一区画210万円の看板が出ていた。

引き合いは多いのだろうか。ところで浄土真宗が盛んだった都市には、東西の本願寺があるものだ。東京の東本願寺は上野に所在。では西本願寺は? 築地本願寺がそれに該当するのだろうか。知っている人は教えてください。

 飛鳥山で遊んだ後、都電で早稲田まで行った。孫は民家すれずれ日以上を走る都電に喜んでいた。かつては都内全域に都電が走り、和や屋の近く明治通りあたりにも専用軌道があった。今では緑道公園になっている。由来を知れば細長い公園の価値が分かる。

路面電車復活を本気で主張する政治家はいないものか。ヨーロッパの古い街では路面電車が今でも繁盛している。日本でもそろそろと思うが。

顧問 喜多村悦史

2021年05月27日