怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記303 生存権のミクロとマクロ

基本的人権は普遍的価値を持つ。これが現代世界の共通理念のはず。日本人の場合、個々の国民の生活保障を国家の義務とする生存権のうちの所得保障に関してはきわめて敏感であり、生活困窮者への給付を強く要求する。

だが所得以上に重要なのが生命の保障である。北朝鮮拉致被害者はそのはく奪の最たるものだが、奪還要求に対する北朝鮮の対応は木で鼻を括ると形容すべきものだ。

「自分は日本国民である。国家には護る義務がある」。これがミクロの生存権。なのに、拉致されたままの者、またその家族の生存権要求はなぜ保障されないのか。

国家がミクロの生存権保障の責務を果たそうとすれば、国家としてその実現のための実力行使をする能力を持っていなければならない。この意味でわが日本は、国民の生存権を保障する能力を備えているのか。

2ページ目 | ミクロの写真素材|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

国家がそのための能力を持つとはどういうことか。日本という国家の発言には、それを実現させる意志と能力が備わっているということだ。犬が吠える場合、二種類がある。一つは警告であり、それを無視されれば、躍りかかって噛みつき、喉元を噛み切ることになる。二つは単なる遠吠え、黙れと一喝されると尻尾を巻いて引き下がる。

国民の生存権を護る国家というのは、前者でなければならない。そのためにはまず国家が国際社会において自立していなければならない。他国と同等の発言力と実力行使の手段を持たなければならない。この場合、同盟により集団的に実力行使する場合もあり得る。こうした体制が整い、国際社会からその状態を認知されてはじめてマクロの意味での生存権保障が可能になる。

菅義偉総理が憲法に緊急事態条項が必要とし、またそれにふさわしい国家としての機能を保有しようと訴えているのはこのためだ。それ自体を否定しようとする者がいるとすれば、生存権保障の前提となる国家としての自決権、自立権をどのようにして維持するのかの対案を国民に示さなければならない。それ民主的国家であるはずだ。そもそも国家に実力がなければ、国民の国家に対する生存権保障要求は成り立たないのである。

顧問 喜多村悦史

2021年05月28日