怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記311 寸足らずの虫にたじろぐ

小田原駅ホームの商用利用可フリー写真素材4329 | フォトック

都内の地下鉄に乗っていたときのことだ。空いていたので、横すわりのベンチ型シートの端、ドアに近い座席に座っていた。

駅に着くたびに、何人かが降り、何人かが乗ってくる。ある駅で乗車してきた若い男が身をブルッと震わせた。すると白い開襟シャツの二の腕あたりから、小さな黒い物体がポトンと床に落ちた。電車の床は掃除して間がないようで、塵(ちり)一つ落ちていないから、その小さな黒い物体がやけに目立つ。何だろう。

数秒後、その物体が動き始めた。長さ1センチちょっとで細長いが、目を凝らすと幾本も足がついている。それが小刻みに運動を始めたのだ。昆虫の一種だろうが、種類は分からない。

落とした男はまったく気づいていない。駅までの歩行中にシャツの中に入り込まれたのであろうから、自分が持ち込んだことすら知らないかもしれない。男は座らず、立ったまま、スマホの画面を見入っている。ただしじっとしているわけではなく、電車の揺れに応じて、足が動く。そのたび片方の靴が上がって、別の場所に降りるのだが、うまく虫を踏み外している。

虫の歩みは緩慢だが、しばらくの後、男の靴が踏みしめる領域を脱した。その後も虫は歩みを続ける。ボクの対面の座席の方に向かっている。そこには背広姿で、一見して銀行マンですといった感じの中年男が座っていた。虫はその中年男の靴先に向かっている。

男は虫に気づいている。視線が虫に注がれていることで明らかだ。「どうするだろう」とボクは観察を続けた。足元まで来たら素知らぬ顔で踏みつぶすだろうか。虫がいよいよ中年男の靴そばに来た。すると男は、器用に靴先を持ち上げ、虫を通過させた。左足、しばらく後に今度は右足。あまりに自然な足の位置の置き換えに見えたから、彼の行動の意味を理解した乗客はほとんどいなかっただろう。

虫は座席の下の床面を車内中央に向かって歩んでいる。中年男から一つ空いた先の座席に若い女性が座っていた。彼女も虫に気づいているようだ。自分の足元に寄ってくるのを、嫌そうににらみつけている。いよいよ足元に近づいたとき、彼女は左足を上げ、そして踏み下ろした。靴のかかと部分で踏みつぶそうとしたのだろう。だが、彼女の足元はハイヒール。的を外してしまったようだ。虫は彼女の靴の下から現われ、今度は右足に近づいている。

電車が次の駅に到着した。彼女はその駅で降りるようだ。立ち上がり、歩き出す際に右足のかかと部分で踏みつぶそうとした。だが、今度もずれたようで、彼女の靴が下から再び登場した。虫はさらに進んでいる。彼女に続いて何人もの乗客が降車した。そして何人かが乗車してきた。

車内が落ち着きを取り戻したところで虫の行方を追ってみた。だが、床には姿が見えない。誰かの靴で踏まれ、その底にくっついてホームに出されたのだろうか。それとも羽を広げて飛んで逃げたか。

 

顧問 喜多村悦史

2021年06月07日