怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記331 “救貧法”の時代背景

生活保護をはじめとする福祉の源流はイギリスにあり、1601年エリザベス1世女王の治世化において実施された“救貧法”に源流があるとされる。その時代背景を考えてみた。

イギリスではエリザベスの父親であるヘンリー8世によって国教会が設立された。彼は兄王の死亡後、その未亡人を奥方にしていたが、子どもを産める齢ではなくなってきた。跡継ぎの男児ができないと王朝が絶えるから、若い女性と再婚する必要があるが、カトリック教会が離婚を認めない。ならば自分が新教会を作って仕切ればいいだろうと決意した。こうしてイギリスでは宗派は否定され、すべてが国教会に一元化されることになった。1540年頃である。

 

救貧法 - Wikipedia

                     画像はwikipediaより

折しもルター等の宗教改革から新教(プロテスタント)が一派を形成し、欧州大陸で旧教(カトリック)とキリスト教を二分する騒動になっていた。イギリス国教会は新教かそれとも旧教か。この路線面の明確さを避けつつ、とにかくイギリスの臣民は国教徒であるべし。ヘンリーはその勢いでそれまで農地をたっぷり所有していた修道院を禁止し、財産を没収して、一部は王領地、一部は地主階層に払い下げたから、キリスト教は財産基盤を失うことになった。

この二つから導かれることは何か。まず国教化による宗教の統一。これにより地域民全員が同じ協会に通うことになる。これにより国教会の末端最小単位である教区がそのまま末端行政単位ということになる。次に宗教改革の影響。旧来のカトリックの倫理では「貧しいことは神の心にかなう」ことであるが、プロテスタントでは「勤勉が神の救済対象」であるから怠惰ゆえに貧窮する者は「神が見放した者」になる。貧しい貧民に施すことは魂の救済になる(カトリック)から、貧民を訓練して正業に就かせることが神の意思に沿う(プロテスタントことになった。貧民対策が宗教から離れ、行政マターになったわけだ。

そのための財源として教区民から貧困税を徴収することになったわけであるが、救済対象の貧困者が増大の一途をたどり、貧困税に対する納税者の不満が高まっていった。それにはイギリスの家庭状況がある。この国では家庭とは両親と未成熟の子どもによる核家族が基本である。血縁による相互扶助の要素がないから、生業手段を保有しない階層では容易に生活困窮に陥ってしまう。牧羊のための土地囲い込みも主因の一つで、農耕手段をなくした者はその教区でいられなくなり、流浪者になって他所をさまよることになる。しかし移動先の教区では受け入れる余地がないから出身の教区に追い返す。貧困者をなくすには、教区内に十分数の働き口が社会に存在していることが必要条件である。

救済という公助の前に、共助を位置づけ、社会内での絆を強化する。また経済成長を通して生業の口を用意する。これが対策の基本であることを再確認できる。

顧問 喜多村悦史

2021年06月29日