怒苦打身日記 ~協会顧問 喜多村悦史のブログ~

怒苦打身日記340 アロハ オエ

誰もが耳にしたことはあるはずのハワイ音楽のアロハ オエ。

美空ひばりさんバージョンの歌詞は次のとおり。

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涙にむせぶよ

椰子の葉がゆれて

つきない思い出が

胸をせめる今宵

 

アロハ オエ アロハ オエ

いつまでも忘れないで…

アロハ オエ アロハ オエ

あなたを待つ・・・ (以下繰り返し)

 

家内がハワイアンダンスを習うようになって久しいが、音楽も自分でできなければと言い出し、ウクレレ教室にも通い始めた。

腰振りダンス(失礼)が健康にもいささかの好影響があるとかで、中高年女性に人気なのだそうだ。

娘一家と正月をハワイで過ごしたのがよほどよかったのか、ハワイへのほれ込みようは半端ではない。上達したらクラス仲間と発表会をするつもりらしい。会場が都内にとどまり、ハワイ遠征にならないことを願うばかりだ。

ところで表題の“アロハ オエ”の作者がハワイ王朝最後の女王であることはどの程度知られているのだろうか。

ハワイ統一王国(1810年)の初代カメハメハ大王については、「南の国の大王は、その名も偉大なハメハメハ…」という語呂合わせのような童謡で子どもでも知っている。この王朝は憲法を持つ立憲君主国だった。ただし選挙権には財産による制約があり、経済を押さえていたアメリカ人たちがほぼ独占し、現地人や日本移民などは除外されていた。王権を実質行使するのはそうしたアメリカ人たち。

「なんとかしなければ」と思ったのがカラカウア王。世界漫遊旅行の先々でハワイの実質独立を画策する。日本には特に期待していて、明治天皇との面会(1881年=明治14年)では、自分の姪と山科宮定麿殿下との婚姻を持ちかけている。たくさんの移民を送り込んでいる日本を後ろ盾にアメリカの専横から母国を救おうとした必至の工作だったが、日本側は返答を避けている。当時の国力では、横やりを入れて来ること必至の在ハワイアメリカ人たちの圧力を跳ね返せないとの外交判断だったと思われる。

 カラカウア王の動きに気づいたアメリカ人たちは日本に警戒感を持つようになる。その矢先、王は訪問先のカリフォルニアで(アメリカ人には都合よく)急死する。後を継いだのが妹のリリウオカラニ女王。アメリカ人の専横を許さずと立ち上がった(1893年)が、逆にアメリカ人を守るとの名目でアメリカ政府の海兵隊に王宮を占拠され、女王は捕縛、反逆罪で有罪(後付けの理由はどうとでもつけられる)、重労働5年を言い渡された。

 こうしてハワイ王国は倒れて共和国になった。その捕らわれの身で作ったのが「アロハ オエ」。そのため恋の歌の裏に、不当につぶされた王室やハワイの人々への追想があるとの解釈論がある。

 共和制のハワイがなぜアメリカに併合されてその1州になったか。ハワイ王国滅亡の経緯から、アメリカ政府は併合には反対であった。ところが1898年アメリカはスペインと戦争になった。アメリカの全面勝利で、フィリピン、グアムなどの領有権が転がり込み、太平洋の反対側まで領土が広がった。この戦争ではカリブ海でキューバにも足場を築くことになり、パナマ運河掘削権も得ている。これで海軍力を太平洋に十分展開できる。次はチャイナ(当時、清国)をめぐるイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどの勢力争いに割り込むことになると、帝国主義への野望が広がる。その場合、太平洋のど真ん中のハワイの重要性は大きい。

 そこで政策を変え、ハワイを併合することになった次第。1900年に準州とし、日本を打ち負かした後の1959年正式の州(現行50州では最新)に昇格させている。

 ただアメリカの偉いところは、大統領(クリントン)がハワイ併合の誤りを認めているところ。ハワイ王国滅亡100周年の1993年、ホノルルの州庁舎ではアメリカ国旗ではなく、ハワイ王朝時代の国旗を掲げることを認めている。

 この点が中国共産党との違い。習近平がチベット、モンゴル、ウイグルなどでの誤りを認めて謝罪する可能性は1ミクロン期待できない。

顧問 喜多村悦史

2021年07月06日