【まいにち終活】終活カウンセラー協会代表理事武藤のブログ

今日は5年前に亡くなった友人の記事をアップします。

武藤です。5年前に48歳で亡くなった、太田宏人さんの「終活」の記事を共有します。

彼は僧侶でもあり、プロのライターそして、終活カウンセラーです。私に書いた原稿をいくつもくださいました。託していただいたのです。時々目を通します、私。皆さんにも共有したいのでアップします。

ぜひ最後までお読みください。

 

終活の話  

「死を見つめると、生が浮き彫りになる」

記事:太田宏人

 

 最近、何かと話題の「終活」。

 皆さんも、何度か耳にしたことがあると思います。ただ、言葉は世の中に広まっていますが、では、実際の終活とはいったいどういうものなのかというと、「よく分からない」という方もいるのではないでしょうか。

 なかには、「終活って、エンディングノートを作る(書く)ことじゃないの?」という方もいるでしょう。

 確かに、テレビなどで終活が取り上げられると、エンディングノートが紹介されることが多いと思います。でも、エンディングノート=終活ではない。というか、「エンディングノートも終活の一つの形ですが、それだけではない」と思います。

 終活の生みの親といわれる武藤頼胡さん(終活カウンセラー協会代表理事)は、「終活は(エンディングノートなどをどう書くかという)『やり方』ではなく、『あり方』です」と説明します。

 つまり、マニュアルとかハウツーとかの「やり方」があるわけではなく、人生の終焉を見つめ、そこから、他の誰でもない自分自身の人生や「いのち」に思いをめぐらし、残りの人生を、自分らしくよりよく生きるために行う活動、ということです。生き様/死に様の「あり方」といってもいいかと思います。人生が十人十色であるように、終活も十人十色なのです。

 古代ローマには「メメント・モリ」(死を思え)という格言があったそうです。死を見つめることで生を強く意識する。死を意識することで生が輝く、という発想でしょう。

 

すべてのいのちが唯一無二

 

「終活は『世界に一つだけの花』ですよ」

 私が終活の話をするとき、こういう言い方をすることがあります。槇原敬之さんが作詞作曲をした「世界に一つだけの花」です。この歌は、人間存在の本質の素晴らしさを歌い上げていると思います。

 

そうさ僕らは

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

 終活の目的というものには、確かに「死後のことを指示する」という側面もあるでしょう。しかし、それだけならわざわざ終活といわなくてもいい。「遺言」といえばよいのです。人生の越し方を振り返るだけなら、「自分史」でいいですし。

 そうではなく、一人ひとりが、自分のいのちの尊さを認めることが基本になると思うのです。そこを抜きに、終活はありえません。

「私なんて、大した人生を送っていないよ」

 という年老いた女性がいます。

 でも、子供たちを育ててきたじゃないですか。それがすでに素晴らしい。いや、子供を育てなくても、何かを成していなくてもいい。生まれてきただけで素晴らしい。仏教では、この世に生まれるだけで「ありがたい」と表現します。

 世の中には、約71億4000万人の人がいるということですから、71億4000万通りの「ありがたい」人生があるのです。

 体が思うように動かなくなっても、痴呆症になっても、寝たきりになっても、身寄りがなくても、それでもあなたは、世界にたった一人の花です。

 あなたの両親から受け継いだいのちは、世界にたったひとつです。

 その時に置かれた状況によって、幸や不幸を感じたり、貧富の差、寿命の長さ・短かさ、大家族の人、「おひとり様」の人。状況は違っても、二つとして同じいのちはありません。だから、すべて尊いのです。

 学者や大臣、社長の功績というものはあると思います。世に与える素晴らしい功績は賞賛されてしかるべきです。

 逆に、何もせず、親の遺産や脛(すね)をかじって、無駄に時間を過ごす人、悪事ばかり働く人、世に害悪を垂れ流す人々は非難されてしかるべきです。

 しかし、どんな人生であっても、その人がたった一つしか持てない、いのちの尊さに影響しません。なぜなら、金銀財宝も株券も、あの世に持っていくことはできないからです。棺に入れたら、燃えるだけ。名声や悪評は残るでしょうが、たいていは、あなたのことを知っている人は、百年後にはいません。

 たとえ一国の王になったとしても死出の旅路を支えてくれる者など誰もいません。誰かが殉死してくれても、みな、それぞれの旅路をひとり往くのです。

 みな、裸になって、すべてをそぎ落として死んでいきます。

 ちょうど、生まれたばかりの赤ちゃんのようなものです。生まれた瞬間、その一瞬だけは、みな一緒です。金の延べ棒をくわえて生まれる赤ちゃんはいません。ボロ布をまとって生まれる赤ちゃんもまた、いません。

 いのちそのものに、尊さがあるのです。

 仏典に「『かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である』と思って、わが身に引きくらべて、(他の生きものを)殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ」という一節があります(中村元・訳『ブッダのことば』岩波文庫/153ページ)。

 自分のいのちが大事であるということを認めるということは、他の人の立場に身になったら、みな、それぞれのいのちが大事であるということを認める、ということです。

「私のいのちが尊い。なら、私は私のために何をしてもいい。他人を蹴落としてもいい。誰の迷惑も考えず、やりたいことをやればいい」というのは違います。それは単なるエゴであり、執着であり、ワガママです。

 終活は「死を見つめることで、自分らしく生きる」とも表現されます。

 しかし、この「自分らしく」というのは、「やりたい放題」とか、我を通すことではないと思います。たとえば、奇をてらった葬儀や葬送を遺言することは、「自分らしい」かもしれませんが、私には執着(しゅうじゃく)のように見えます。そんなことをしなくても、あなたのいのちは世界にたった一つだけの花なのです。だから、一つしかない。つまり、いのちそのものに個性があるのです。

 いろんな花があります。

 一生懸命に咲いて、そして、花は枯れていきます。その時にはもう、見た目は美しくはないかもしれませんが、種から花へ、そして種へとつながってゆくいのちはの価値は不変です。

 そうして、私たちがいのちの尊さ、素晴らしさを実感するときというのは、誰かが生まれるとき、そして、誰かが去るときです。だからこそ、終活は「終焉」を出発点にするのです。私は、赤ちゃんが生まれるときに、両親があれこれとその子の未来を思い描くことと終活の本質は同じであって欲しいと思っています。

 繰り返しますが、終活のベースに「いのちは素晴らしい」という思いがなければ、単なる遺言だと思います。

 私自身は、たんぽぽみたいな花になりたいです。ああいう花を咲かせ、枯れ、枯れた花が有機物として他の生命の糧となり、そして最後は種になって、ふわっと旅立ちたいと思います。

74133020_480x319

 

 

-----

あ〜会いたいな、太田さんに。

有機物以上になっていますよ。

 

 

武藤頼胡

2023年10月23日